やんぐの衛生日記

バンマスによるやんぐの衛生日記。これまでの運用はこちらやんぐの衛生日記

今年はいつからだ

去年の年末近くから猛烈に忙しくなって、気がつけば4月が終わっていた。
やっと時間が少し出来たので、年末に出来なかった大掃除や書類の整理などをやったりして、けどまだ来た年賀状の確認が出来ていない。正月はまもなくだ。
と言うてる間に2006年の用事をまだ済ませていないことを思い出してドキドキしたり、次の用事までの期限が近づきすぎていることを発見してまた大あらわになっていたり。そんな状態なのにMovieBooの引っ越しなんぞをやって、それがためにこれまでのURLに重なっていたDigitalbooを移動をやって、それでトラブって無茶苦茶になって対処に二晩かかるなど本末転倒アホの見本のような毎日、これはやばい。これはまたえらいことになるぞ。締め切り迫る。

こうした忙しさはもちろん現実逃避に役立っている。
現実はもう終わっているので他に何かやっておかないと持たないのである。何が終わってるって、事故そのものじゃなくその後の国及び国民の終わりっぷりは常軌を逸していて、もはやすべてが論外、いまだに一所懸命いろいろ訴えてる人とかほんと偉いよなと思う。わしは呆れすぎて屁も出んわ。

てなわけで、やんぐの衛生日記を丸ごと移動させる計画はすっかり頓挫中、だって思っていた以上にややこしいんだもん。
さくらのブログからWordpressに移転する敷居の高さは異常だ。Digitalbooで懲りた。その辺のいきさつは 移転 とその続き さくらのブログからWordPressへ-その2に書いたのでwordpressに詳しい人は読んでみてそして解決策をさっくり教えてください。

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とめ退院

危篤状態で入院していたとめは退院の日には若干の改善が見られ、要介護状態で家に帰ってきた。
投薬と強制給餌を続けているうちに、だんだん強制給餌の餌が気に入ってきたと見えて、徐々に自分から食べるようになってきた。ただし手からのみ。

そんでもってさらにしばらくするとますます体調がよくなってきて、ちょっとずつなら自分で餌を食べられるまでに回復した。

完全に奇跡が起きたようで、その後の血液検査でも数値の改善がめざましく、もちろん痛んだ肝臓は元に戻らないとは言え、残りの部分がきちんと仕事をし始めた模様。

国自体が滅びに向かっていくのと裏腹に、とめは生命を取り戻した。強いぜとめ。がんばったなとめ。

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とめ入院

突然具合が悪くなって、病院へ連れて行ったら肝臓激悪。まさか肝臓。沈黙の肝臓。沈黙故、症状が出た時には末期的なのだとか。そ、そんな。
みっけのときは「死ぬ」と思って連れて行ったが、今回は「ちょっとしんどそう」程度で「早めに診てもらおう」みたいな気構えだったので全く現実を受け入れられず。
集中治療で即入院。
わしはぽかーん。

とめを病院に置いて家に帰ってきて階段を登って「とめ」と呼びかけてしまった。あ、いない。

とめが家にいない暮らしを今までしたことがない。
みっけがあんなことになった時も、とめはいつもそこにいた。いつも子犬みたいな顔して楽しそうにしていたのに。
これは堪える・・・筈が全然堪えていない。なぜなら現実をまだわかっていないから。

肝臓の異常数値から蘇った人を何人か知っている。とめもその何人かのうちのひとりになるべきである。
足腰が弱ってきたお婆さんではあるが、まだまだ頑張ってほしい。お願いします。お願いします。

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終戦記念の戦闘状態

本日は終戦の記念日でありますが、現在は新たな戦争状態に突入中、人殺しの核拡散戦争の真っ只中です。自分が生き抜くために他人の子を殺す、一地域の壊滅を誤魔化すために他地域の人間も殺す、責任回避のために同胞を殺す、己の私利私欲のために猛毒をまき散らす、そういう考えの変態殺人鬼連中と真っ当人間の寡黙な戦闘中です。
そういう自覚なしに暢気に構えている馬鹿や殺人鬼の洗脳に首まで浸かっている間抜けは放射能食ってくたばっておればいいし、同胞や家族の命を守りたい人間はそれなりの行動を起こすことが求められます。

戦闘中ではありますがこの戦争の勝敗はすでについています。滅びの道を着々と歩んでいることは間違いないので、この戦闘は死に行く人間のせめてもの最後っ屁にすぎませんのです。だってすでに手遅れだから。
「すでに手遅れ」はこの10年20年だけでも何度も訪れており、すでに「すでだらけ」でどうしようもありません。この大惨事の中、暴動も起きず騒ぎもパニックも起きず、半径数百キロの汚染地域にまだ人が住んでいてぐだぐだやっているという、つまり生活の変化より死を望むというような連中が大多数というこの変態性現実をまざまざと見せつけられて手遅れと思わず何と思う。

このキモさは並みじゃない。これはさすがに予想の範囲を超えた。

ま、とりあえず核拡散を食い止めよう。せめて他地域の死者を減らしましょう。

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それはこちらで

そしていよいよ「やんぐの衛生日記」は今のこちら、内部的にはwordpressという仕組みの中に組み込み直します。
wordpressにはカスタムポストタイプという、ポスト(投稿)を複数持つ仕組みがありまして、当初それを使ってブログを丸ごと持ってこようと思いました。そのために調べつくすわ実験するわ知恵熱出るわペーハーペー中毒になるわ危うく死にかけました。
死の淵から蘇りふと気づいた。
現時点現バージョンではカスタムポストタイプはまだまだ使い物にならん。

通常のポストと同じように扱えないし、何をするにも酷くややこしいことをせねばならん。カテゴリー一覧すら素ではできない。それどころか普通に表示すらできん。すべて専用のテンプレートを作らねばならない。それをしようにも使える関数というかタグは普通のポストとぜんぜん違うし種類は少ないし、さらに極めつけはこのカスタムポストにデータをインポートすることが出来ない。
無理にインポートしてみたら編集画面にすら現れない謎の亜空間に取り込まれてしまって、結局しょんべんちびりながらデータベースに直接アクセスして亜空間を修復する羽目になってしまった。
こんな機能はまだまだ専門家のおもちゃの段階だわさ。

というわけで普通に通常ポストとして取り込むのがいいかもしれぬ。
このサイト全体が実は通常ポストで出来ている。カテゴリーで分けて出力の見栄えを変えているだけなのである。
おかげで投稿画面はしっちゃかめっちゃかのぐちゃぐちゃ状態。
将来、カスタムポストが使いやすくなればその時移動することを考える。URLが変わったりするけどそんなことはどうでもいい。
(だからみんなは個別の記事にリンク貼ってもいつか無効になるかもしれないから気をつけてね。リンクするような奇特な人いないと思うけど)

というわけでコンピュータ時代の何が鬱陶しいって、捨てない限りデータが残る。時に破壊されてなくなるけどそうでない限りいつまでもくだらないデータが残っているのである。残ってしまっている以上わざわざ捨てるのもこれまた鬱陶しいのでそのまま残す。そうこうしているうちに何十年前の独り言みたいなのが存在し続けるのである。
絵描きでドンバな人間は基本自己愛に満ちている変態だから、そういうデータも存在している限りまた誰かに見てもらおうとするわけだ。このチルドサイト全体が古いデータで満ちているのもそういうバンマスの変態性に起因している。そして「やんぐの衛生日記」は完全に日記だからその変態性はさらに剝き出しになるのである。

変態性の剝き出し宣言を、本日終戦記念日に執り行うことになった宣言でありました。

というわけでこれ以降、ネット黎明期からのくだらない文言を順次こちらに持ってきてしれーっとアップするかもしれないので(しかも古い日付のまま)皆様はあまりお気になさいませんよう。

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阿呆阿呆作戦、ざまあみろ症候群とカッコ悪症候群

きみたちは阿呆だ。
だからすぐに仕掛けられた阿呆阿呆作戦の罠に落ちる。罠に落ちないためにはその罠がいかなる罠かを知っていなければならない。
そこで、今回は今まで散々書いてきたことではあるが、阿呆阿呆作戦が内包する現代の二つの特徴について簡単におさらいしておきたい。

阿呆阿呆作戦とは庶民の頭の悪さを利用した統治の術、洗脳作戦のうちの最も効果が期待できる「奴隷同士の争い」を演出する作戦である。
権力者ならお馴染み、不満の矛先を本質から逸らし庶民同士の諍いレベルに落とし込んで自滅させるという定番作戦だ。
怒りの方向を誘導し相互監視をさせることによって思想的にも統治を図ったこの作戦の最も有名な例は江戸時代の五人組や戦時の隣組であろう。これらはすぐに徒党を組み村八分とか言って異端を排除する陰湿な国民性と相まって効果絶大であった。
村人が竹槍で「鬼畜米英」とか言って玉砕という集団自殺を目指している最中、戦争反対とか日本は負けるとかおれは兵隊になりたくないとか放射能は危険だとか神風は吹かないとか子供に20ミリシーベルトなんかどんでもないなどと言おうものなら「非国民」「危険を煽るな」と糞田舎の呑百姓や頭が腐ったネット番長どもから総攻撃を受けて幸せなファシズム社会で生きていけなくなるのである。

さてそれが所謂阿呆阿呆作戦であるが、五人組や隣組から時を経て今なお健在な作戦であり、作戦の方向性も広がりを見せている。神経症的現代人にぴったりフィットする「ざまあみろ」と「カッコ悪」というトレンドがそれだ。

ざまあみろ症候群

大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない巨悪がわからない。巨悪がたとえあっても目に映らない。いや、例え目に映っても脳がそれを認識できない。つまり想像を超えた怪奇現象なわけだ。もちろん怪奇現象を信じるということもないから、つまり巨悪は存在しないということになる。しかし巨悪はあるから、当然ストレスを感じている。そのストレスは攻撃先を見つけたくてうずうずしていて、そこで身の丈の小さな悪に対して怒りをぶつけることになる。
例えば3号機の爆発という大きな出来事から阿呆どもの目を反らすため、あるいは電力を人質に取ったプロパガンダのために「脅し停電」という停電があった。脅し停電じゃなくて何だったかな、何とか停電。何でもいいが。そうすると原発災害という巨悪からあっというまに停電という出来事に興味が逃げる。停電では抽象的だから次に節電という言葉に踊らされる。そこまで行けばあとちょっとだ。次は電気の無駄遣いという悪の存在を見つけようとする。悪者狩りが始まるのだ。そして民衆統治の術を心得ているある卑怯者が一言「パチンコと自販機は無駄遣いだ」と助言を与えると、愚衆はあっというまに飛びつく。「パチンコを潰せ」「自販機を潰せ」
やっと貧弱な想像力でカバー可能な悪を発見して大喜びだ。これぞ身の丈の喜び。

根底にあるのが「ざまあみろ症候群」である。誰しも気にくわないものはある。嫌いなものや鬱陶しいものがある。もちろん日常的な身の丈の近く、遠くの敵でない近くのちょっとした敵だ。嫌いなものに対してファシズムの許しが得られれば誰はばかることなく攻撃することが出来る。田舎の村八分と同じ原理である。煙草に対する気違いじみた差別と同じ原理である。
嫌いなもの、悪い物に対する集団ヒステリー的攻撃に快感を覚えるこの変態思考を「ざまあみろ症候群」と呼ぶ。
自分が嫌っている物を大っぴらに差別することが許されるこの快感は格別だ。
煙草が嫌いだったあなた、パチンコや自販機が嫌いだったあなたは普段の理知的思考回路を遮断してついうっかりファシズムの罠に落ちて攻撃の尻馬に乗らなかったか今一度我を顧みて頂きたい。

「ざまあみろ症候群」の質の悪さは誰しもついうっかり罠に嵌ってしまいがちなところにある。例えば自分が攻撃を受ける立場にあってさえ、簡単に他者攻撃を行ってしまう危険性があるのだ。
煙草差別を受けているにも関わらずパチンコ攻撃に荷担してしまうのだ。それが「ざまあみろ」の基本だからだ。被差別者が他の差別対象を見つけて喜んでいる状態と同じなのである。自覚しにくく、快感に我を忘れるのだ。

「煙草迫害なんか当然だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「飲酒運転の罰金増やせ。ざまあみろ。もっとやれ」
「消費税値上げで自営業者は死ね。ざまあみろ。もっとやれ」
「原発誘致した村は自業自得だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「民主党に投票するからだ。ざまあみろ。もっとやれ」
「ギャンブルなど害悪だ。ざまあみろ。もっとやれ」
「公務員の給料下げろ。ざまあみろ。もっとやれ」
「迷惑な自転車取り締まり強化。ざまあみろ。もっとやれ」

まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず誰かが誰かを攻撃したときに「ざまあみろ」とつい思ってしまう瞬間を自分で自覚することだ。そして、ざまあみろと思った対象がどれほどの大きさを持つ悪なのかを今一度問い直し、その対象を憎悪することによって憎悪から逃れる大きな存在が他にないか広く世界を眺め回すことだ。
任侠物の主人公のように「大物は雑魚を相手にしない」という基本を忘れず、憎悪は憎悪しか呼ばないというむかしの人の偉い言葉を思い返し、自分の憎悪が社会悪に利用されていないかどうか疑う癖をつけるのだ。

カッコ悪症候群

大体において庶民は阿呆である。阿呆とはなにかというと想像力がないということだ。想像力がないから身の丈以外のものごとを想像することが出来ない。よって身近でない思想がわからない。
誰もが身近な世界に生きている。物の考え方や流行は自身を取り巻く小さな世界で起きているのであるが、阿呆故それがわからない。日本中がそうだと思ってしまうのである。
例えばテレビばかり見ている人はテレビの中の世界が世の中のすべてだと思ってしまうし、ネットだったらTwitterやなんかで読んでる世界、友人関係ならその身内が話題にする思想や世界観の影響下に住んでいてそれがすべてだと思ってしまう。
ほんのちょっと天の邪鬼な人間がいて、「みんな」という言葉を嫌う傾向がある。特に若者に顕著な「みんなと同じじゃ厭」っていうアレである。ネットでは「中二病」という言葉があるらしく、なかなか言い得て妙だと思う。「カッコ悪症候群」は中二病の一部に含まれる概念かもしれない。
物事には多様性や深みやいろんなものがあって、なかなか一筋縄ではいかないものだ。深くはまり込みすぎて判断不能になってしまうのも困りものではあるが、何も考察せず本質と全く無関係な尺度で判断するのは論外だ。
「カッコ悪症候群」とは、本質外の尺度で迂闊な決定を下してしまいその時点で思考を閉ざす行為に嵌る症候群である。
簡単な例えでは、みんながガラケーを使っているときに「みんながガラケーでカッコ悪いからそれ以外を」という理由だけでiPhoneを選ぶようなことを指す。ここで重要なのは、iPhoneを選ぶ理由がiPhoneそのものになく、みんな対自分の個人的尺度、さらに言えば身の丈的尺度だけを動機にしている点だ。この例えはここに留まらず続きがある。次に「みんながiPhoneでカッコ悪いから」と、iPhoneのそっくりさんに飛びつく行為まで含む。ここで重要なのは「みんながiPhone」という事実認識、つまり「みんな」尺度の狭さ、次に「iPhoneではないiPhone如き物」に対する無警戒な信頼の危険性である。
もうちょっと違う例えだとこうなる。「みんなが原発は危険だなんて言うから、じゃあおれは危険じゃないほうに付いちゃおう」「みんなが福島から疎開したほうがいいなんて言うから、じゃあおれは福島に留まってがんばっちゃうほうを応援しよう」
「みんな」の認識が稚拙なほど狭いことにまず気づくだろうか。そして肝心な原発や放射能についての考察を一気に放棄して「自分にとっての流行」という狭い世界、頓珍漢な尺度で自らの思考を決定していることに気づくだろうか。
原発について自分の考えを突き詰めるのなら、なによりもまず原発について考えるのが正統である。それを放棄して「他者がどう言っているか」「その他者が自分を含めた狭い世界でどういう存在か」という無意味な尺度で思考を停止させるこの「カッコ悪症候群」に嵌った頭の悪さは格別である。

天の邪鬼なことは否定しない。むしろ天の邪鬼であることは思考の基本である。カッコ悪症候群の問題点は、天の邪鬼な部分ではなく、尺度が頓珍漢な上に決定がこれまた頓珍漢であるという一点に集約される。さらにいえば、実はカッコ悪症候群に嵌る人間が考える天の邪鬼感は、実はちっとも天の邪鬼ではなく、寧ろ大衆迎合であり集団心理でありやはりファシズムに片足突っ込んでる状態なのである。
カッコ悪症候群の患者が考える「みんなと同じじゃ厭」の「みんな」部分、大抵これが全然みんなではなく寧ろ少数派である場合が少なくない。それを「みんな」と思い込んで逆の思考に陥るとき、その結果こそが圧倒的「みんな」の世界なのである。ここ難しいからよく考えて。患者が「カッコ悪い」と思う対象は実はよくよくみてみると反大衆的である場合がほとんどなのだ。
カッコ悪症候群の患者は実のところ全体主義者であり、全体主義に反する物事を見つけると「それが流行っている。嘆かわしい」と感じるのである。そして、その流行っている物事の正反対を主張しはじめ、権威の片棒を担ぐ仕事に勤しむわけなのである。その仕事こそが尊敬する権威からの指令であり洗脳の結果だと気づかずにだ。

「みんなが放射能が危険と煽っている。カッコ悪いから自分は安全を強調してやろう」
「みんながチェルノブイリの悲惨さを語っている。カッコ悪いからチェルノブイリは大したことないと言ってやろう」
「みんながミニシアターでヨーロッパ映画を見ている。カッコ悪いから自分は大ヒット作だけ見ることにする」
「みんなが煙草をカッコいいと思ってる。カッコ悪いから煙草嫌いに徹しよう」
「みんなが小出助教の話を聞いている。カッコ悪いからあいつは信用しないでおこう」
「みんなが原発を止めろと言っている。カッコ悪いから止めなくて良いという立場に立ってやれ」
「みんなが震災について真面目に語っている。カッコ悪いから震災の話はしないでおこう」

まことに卑しいことだ。
この症候群から逃れるためには、まず身の丈の小さな世界から脱出し、出来る限り大きな世界を認識することだ。思考の対象はその対象そのものであるという自覚を持ち、無関係な尺度を当てはめようとした時に間違いに気づくことである。

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